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人が生きる目的とは?

 私がうつ病時代に、「俺はなんでいきているんだろう?」と感じた時の話を妻宛へ記載したものです。結局、妻にはみせていません。
 その理由は、妻が自分で見つけようと頑張っているからです。せっかく書いたので、皆様にも読んでいただきたく、ここに記載いたしました。
 若い頃の私の考えなので、考え方が甘いこともたくさんあるかもしれませんが、うつ病を発症し、うつ病を克服した私の経験談を是非お読みいただけると嬉しいです。

<本文>
 俺が昔、何を頑張っても楽しくない時に悩んだ時の話です。
 俺の出した答えがすべてではないけど、参考までに読んでもらえると嬉しいです。

<題名:生きるって何?>
 「生きる」のは「自分の体を守っている」結果だと俺は思ってる。
 俺は昔、「何のために生きてるんだろう?」と考えていた。でも、その答えはすぐに見つからなかった。
 そんな時、「なぜ生きているのか?」と考えた。それが「自分の体を守っているから生きている」という事実に気づいた。
 ということは、「自分の体を守る」から「生きている」だけなのだから、「自分の体を守る」限り、「生きる」結果しかでない。
 それならば、「生きる」目的など自分で作らなければ最初から何もないことにも気づいた。
 「生きる」目的などなくても昔は楽しく過ごせたのだから、今は「生きる」目的など考えても意味がない。
 だったら、「自分の体を守る」ことをしなければ、結果的に「生きる」こともないことになる。
 だから、俺は「自分の体を守るのは何のため?」と考えた。
 人は「恐怖や不安などの不快感」があれば、取り除こうとする。その理由は「嫌」だからだ。
 つまり、俺は「恐怖や不安などの違和感を感じたくない」ために「恐怖や不安などの不快感」を取り除いた結果、「自分の体を守っている」にすぎないだけだったことに気づいた。
 結局、「生きる」とは俺が「嫌」と感じることを取り除いた結果に過ぎなかった。 
 だから、俺がしたいことは「嫌」と感じないようにすることだということに気づいた。
 「嫌」と感じないようにするためには、「嫌と感じないこと」を目的とすればよいと思った。
 「嫌と感じないためにはどうしよう?」と俺は考えた。その結果、1つの答えにいきついた。
 それは「幸せ」を目的にすることだ。なぜなら、「幸せ」とは、現状に満足しもうこれ以上の上を目指さなくなることだからだ。
 俺は「満足」すれば、「嫌」と感じないし、これ以上「頑張る」必要もないと思った。
 だから、「幸せ」になることを「目的」としたのだ。
 だったら、俺は「満足」できる行動を探せばいい。「満足」できれば、「これ以上頑張る」ことも「嫌」な気分になることもないのだから。
 でも、どうやったら「満足」できるのか?これまで経験した中で「満足できた」と感じる瞬間を考えた。
 例えば、お腹がすけば「食べたい」と感じる。そこで、「ご飯を食べる」と「小さい満足」が得られた。
 でも、「お腹がすいている」を「我慢」すると「死にそうなぐらいお腹がすく」ためとても辛い。でも、「ご飯を食べる」と「大きな満足」が得られた。
 ということは、「我慢」すれば「大きな満足感」が得られるが、「辛い」も同時に得られる諸刃の剣だと感じた。
 だったら、俺は小さい「我慢」をして「小さい満足」を得る方が「満足できる」と思い、俺は「小さい満足」を選ぶことにした。
 「小さい満足」はどうやって探すのだろうと考えた。その結果、1つの方法を考えた。
 ①必ず成功できることに対して、少し「我慢」して「○○したい」と感じたら「行動」し、「小さい満足」を得る。
 しかし、実際に何度も同じことをやっているともっと「大きな満足」が欲しくなることがわかった。
 だから、俺は「大きな満足」を欲しがる自分を懲らしめるために、自分ができることで「不快な気分になること」を行動した。
 俺は自分のできないことや、やったことのないことに「不快感」を感じる。
 だから、「大満足」が欲しかったら、「不快感を克服」させるのだ。
 この考え方が「自分に厳しくする」という意味だったのかもしれないと感じた。
 もし、「大満足」することができれば、俺は「不快感」が減り、「行動範囲を広げる」こともできる。
 もし、それに、失敗しても、「もっと満足したい」という自分の「感情」を抑えることもでき、どっちに転んでも、俺は「満足」につながることに気づいた。
 こうして、俺は「失敗しても満足できる方法」に気づけたことになった。
 俺は「失敗は必ずしも怖いものではない」ことをしった。「失敗が怖い」と感じるのは、「自分が満足できる方法にきづいていない」からなんだと思った。
 だったら、「不快感」を感じた時は「自分が満足できる方法」を見つける行動をすればよいことに気づけた。
 昔の俺は「不快感」を他人にあたる、又は物にあたることしかできなかった。
 しかし、今思えば「自分がどうすればよいのかわからない」から他人にあたったり、物に当たったりしたのだということにも気づいた。
 しかも、他人から嫌なことを仕返しされたり、物にあたっても自分が後でショックを受けるだけであることをしった。
 相手や物に対して、自分が嫌だと感じることをすると、結局自分の責任で周りを苦しめることにもつながることにも気づけた。
 今は「自分が満足できる方法を見つける」ことで、「不快感」を失くすことができることがわかった。だから、他人から嫌なことを言われても、「自分が満足できる方法」を探した。
 そして、「他人も自分も満足できる結果がえられる行動」にたどり着けた時、俺が「満足」するだけではなく、周りも「満足」することで、俺は周りから「感謝」されることを知った。
 そのときの俺は意識して、「周りのため」に行動していなかった。
 ただ、「自分が満足する行動」が周りも「満足する」ことにつながっただけだったのだ。
 俺は気づいた。自分が満足することが他人に迷惑をかけないことだが、自分を満足させる方法が周りも満足できれば、周りから「感謝」され、俺はさらに「大満足」を手に入れられることを知った。
 俺は、「満足」をくれた周りに「感謝」した。なぜなら、「満足」を作ったきっかけは自分かもしれないが、周りが俺に「感謝」を伝えてくれなければ、俺は「周りも満足している」ということに気づかなかったからだ。
 それからの俺は、他人に「感謝」を伝えるようにした。
 その理由は「満足」のおすそ分けをするためだ。他人は俺が自分のために「満足する行動」をしても、「他人も満足」できれば、俺に追加して「満足」をくれるからだ。
 すると、また新しいことに気づいた。周りから「感謝」の言葉を言われる回数が増えたのだ。
 俺は気づいた。「俺が周りに感謝する言葉を伝えると、周りも俺に感謝していることを話ししてくれるんだ」と言うことに気づいた。
 そして、俺はある時、はっと気づいた。俺には「不快感」がなくなっていたのだ。だから、俺はいつのまにか自分で「不快感」に飛び込んで「行動範囲」を広げていたのだ。
 よくよく考えれば当然だ。「満足」すれば「違和感がない」のだから、「気にならない」が手に入ることだ。
 だから、俺は「気にならない」から、俺は「幸せ」を手に入れたことに気づいていなかったのだ。
  こうして、俺は、いつのまにか「幸せ」になっていたのだ。
 まとめると、以下のようにいえる。
 「幸せ」は「嬉しい」ではなく、「何も感じない」結果がえられることだ。
 ただ、「すごく幸せ(大満足)」は「嬉しい」も手に入る。だから、人は時に「すごく幸せ」をほしいと感じるわがままな存在だ。
 誰でも「すごく幸せ」はほしい。でも、その分「苦しい」気持ちを感じなければ、自分では手に入れることができない。
 だから、「すごく幸せ」を感じれることに条件をつける。
 それは「今はできないことをできるようにする」方法だ。それを「目標」として人は生きる。
 そして、「目標を達成する」ことができれば、「すごく幸せ」を手に入れることができる。
 当時の俺には、「目標」が未来にありすぎた。当時の俺の目標は「縁側で結婚した人と一緒にお茶を飲むこと」だからだったからだ。
 未来すぎて、すぐに「すごい幸せ」は手に入らない。当然だ。
 だったら、今できることを「目標」とすればいいことに気づいた。
 当時の俺は「楽しくない」ことが悩みだったので、「楽しい」と感じることを探すことを目標とすればよいのだ。
 でも、当時の俺には「楽しい」と感じれる方法がわからなかった。
 だから、俺は「楽しい」と感じることを数えることにした。
 すると、同じことを繰り返すと、「楽しい」と感じれないことがわかった。だから、俺は新しいことに挑戦した。
 もっと「楽しい」の数を増やすために、他人に相談することをしたのだ。
 人の話をきくと、自分の知らないことだけでなく、自分がきづいていなかったことも知った。
 そして、いつの頃からか、「やらなければならないこと」で自分が「嫌」と感じたことも、「楽しめる」ことを知った。
 俺が「嫌」と感じるのは、「嫌なことやってるけど大丈夫?」と体が俺に教えてくれるサインだ。
 自分で嫌なことに行動することを選べば、行動止めれば怖くないのだから「行動しなければ怖い」ことはない。だから、「嫌」と感じていることでも、「俺のためになる」ことであれば、俺は「挑戦」したのだ。
 もちろん、人に強制的にやらされると、「やらされている」と感じるので、ますます嫌いになる。
 しかし、自分で行動すれば、「嫌」と感じることが怖くなくなるのだ。
 この時から、俺は「嫌」なことでも「目的(何のため)」を見つけることができれば、行動するようにしたのだ。
 他人に強制されることは嫌だが、自分で挑戦する分にはいつでもやめることができる。
 できないことは、人に言われてやるのではなく、自分で挑戦することにより、「嫌な気持ち」は小さくなる。
 だから、是非嫌なことにも「挑戦」し、「すごく幸せ」を手に入れられるように俺はなった。
 だから、今は「幸せ」を自分で作ることができる。少しでも多く「すごい幸せ」を感じるためにも、俺は日ごろから「種まき」をして少しづつ育てることで、「すごい幸せ」も定期的に手に入れるようにしたのだ。
 これが俺が自分のために考えた「精神病改善方法」であり、「幸せ」を手に入れる方法だ。
 参考にしてもらえると嬉しいです。
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藍島ゆき様へ

藍島ゆき様


書き込みありがとうございます。
私も経験者なので、お気持ちよくわかります。
 ご自分自身を受け入れることができて、すごいですね。
 私個人はご自分自身を受け入れることほど難しいことは中々ないと思っております。
 1つ私の気持ちをお伝えさせていただくと、ゆきさんのがそのように思えるということは「愛される(大切にされる)ことを許す」ということでもあります。
 私は「愛されたい」という気持ちがあるからこそ、「愛する」気持ちを持つことができると思うため、私個人は、「愛されることを許せない」病だと思っています。
 トーナメントから、本ブログをみてくださり、ありがとうございます。もし、よろしければ今後も本ブログを読んでいただけると幸いです。

よっし~2 

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Author:よっし~2
 精神病の彼女と僕が精神病を乗り越えて結婚までを描いた日常を「ドラマ」に記載しております。今では彼女から妻へ変わり、さらに病状は日々改善しております。
 その際、介護側である私が思いついたことや、病気の紹介などを「治療方法」に記載しております。
  2013年2月より「精神病の彼女と僕 ~私と彼女が幸せを掴むために~」が「まぐまぐメルマガ」でデビューすることになりました。
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