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「褒める」と「認める」ことの心理状態の違いについて

 早速ですが皆様にお聞きします。
 皆様は「認められること」と「褒められること」どちらが嬉しいでしょうか?

 ここでは、「認められること」と「褒められること」の心理的な違いについて私の意見を述べたいと思います。

 私の経験談ですが、私は幼い頃から「褒められたい」という「欲求」が強く、「良い子」になろうと頑張ってきました。
 その理由は「褒められる」=「嬉しい」と思っていたからです。

 しかし、いつの頃からか、「褒められる」=「嬉しい」と感じなくなりました。
 その理由は「本当にそう思っているの?」と「人を疑う」ことを覚えたからです。
 私はいつの頃からか「褒められる」ことに「相手には何か裏があるのではないか?」と思うようになったのです。
 ではその原因について、私の考えを記載いたします。
 
 まず始めに、「褒める」とは「人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う」という意味です。
 言い換えれば、「褒める」とは「相手を特別扱いする」ということだと私は考えています。
 昔の私は周りから「特別扱いされている」ことに「優越感」を感じていました。今振り返れば、「周りから必要とされたい」という気持ちが強かったのだと思います。

 しかし、次第に「特別扱いされたい」という気持ちがなくなりました。
 話は少しずれますが、ここでいう「特別扱いされたい」という気持ちというのが、「愛されたい」と願ってしまう原因の「見捨てられ不安」だと私は認識しております。

 話しを元に戻しますが、私は「特別扱いされたい」という欲求がなくなり、私は次第に「めんどくさい(生きづらい)」と感じるようになりました。
 そして、私は次第に「何のために頑張るのか?」「何のために生きているのか?」など考えるようになったのです。

 話をまとめると、昔の私は「人に褒められるため」に頑張っていたのです。
 しかし、「褒められる」ことに飽きてしまい、「目的意識がなくなった状態」になったため、「どうすればいいのかわからない状態」になったと考えています。
 
 以前は、「褒められる」ということは「嬉しい気分を提供してもらえる」ため、「自分のやる気を引き出す」ことにつながりました。
 しかし、「特別扱いされたい」という欲求がなくなると、今は「特別扱いされたい」わけではないため、「褒められる」=「嬉しい」ではなくなったのです。

 当時の私は自分が変わったように感じました。以前は褒められることが「嬉しい」と感じていたにもかかわらず、その頃には「何も感じない」に変わったのですから。

 幼い頃の私は「自分の欲求(周りから必要とされたい)」を目的にしていましたが、その気持ちがなくなった当時の私は「自分の欲求がわからない」状態であるため、目的がなくなったといえるでしょう。
 目的とは「ゴール地点」であることから、終わりのない状態です。この体験は「自分で自分を守る力を養うための試練」と私は考えています。
  
 「自分で自分を守る力を養うための試練」に打ち勝つためには、「自分で選択して行動する」必要があります。
「①目標」⇒「②目的」⇒「③手段」⇒「④行動」⇒「⑤結果」⇒「⑥反省」⇒「②~⑥の繰り返し(目標を達成するまで)」⇒「目標達成」することを実は昔から私たちは体験していたのです。
 私は忘れてしまっていたのですが、特に②・③・⑤は「両親や信頼している他人など」によって「与えられていた」だけなのです。
 当然です、例えば「好きな仕事をしたい」と思っても、「学校を卒業する」必要があったりすることなど、小さい子供が知らないのですから大人が教えるのは当たり前のことなのですから。
 せいぜい 自分自身で意図的にしていたことは④だけなのです。
 
 ここで、「特別扱いされたい」という欲求がなくなるということは、「自分で考える力が強くなった」証拠だと私は思っています。
 自分で考えることにより、①を自分で決めます。多くの方は最初は、「1人の力で生きる」ことを①に設定する方が多いようです。
 しかし、今まで②・③・⑥を自分でやり遂げたことのない人が①を考えても、うまくいきません。
 その理由は「②・③・⑥を与えてもらっていた」からです。これを「自分で作り出す」ことをしなければなりません。
 これが自分でできるようになった時、「続ける」ことができるようになると私は思っています。
 人は自分の体験から「やり方」を考えます。しかし、自分の知っている「やり方」の多くは①を実現できないことが多いのです。
 その理由は「やる気がでない」からであり、「楽(自分にできる方法)な方へ逃げる」のです。この「楽な方へ逃げる」ことを「言い訳」といいます。
 ここで大切になるのが「認められること」だと私は考えます。

 ここで、「認める」とは「許す、承認する」という意味です。すなわち、「認められる」ということは「もう頑張らなくていい」という意味に私は感じたのです。

 子供の頃は「褒められる(頑張る)」ことを望み、大きくなると「認められる(頑張らない)」ことを望むのではないか?と私は考えています。

 精神病にかかる方の多くは「認められる」ことが不足しており、「適度に頑張る」ことがどうすればいいのかわからない方がかかりやすいように思えます。

  「褒める」は「相手からみた評価結果」なのですが、「認める」は「相手の思いを尊重する」ということです。

 私の勝手な考え方かもしれませんが、私は人を「精神的に大人」と判断する基準は「相手を尊重できる人」と考えています。
 
 私の場合は「人から認められる」ことにより、「今の自分のやり方」を「諦める」ことができ、「自分のやり方を広げる」ことを目的に変換することで「周りの意見と自分の意見を合理的に判断して手段を決定する」ことができるようになりました。





 以上のことから、私は「褒める」のは「過去」、「認める」のは「今」に必要な言葉であると私は思っています。
 「感謝」とは「過去」のことであり、「相手の行動が今の自分のためになった」と考えることによって、「信頼関係(お互いを尊重しあう」ことが自然とできるようになるのではないか?と私は考えています。

 そして、私は「人を認めることができる人間になりたい」、そう思って今を生きています。
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「トラウマは幸せを作る素になる」

↑は本内容と関係ありません。消し方がわからないので、無視してお読みください。

「トラウマ」とは「精神的外傷」のことです。
 この「トラウマ」に悩まされ、苦しむ方は多いことでしょう。
 場合によっては「精神病」になる方も多いかもしれません。
 しかし、「トラウマ」は「自分を苦しめる」ことにしかつながらないと思っていませんか?
 私は必ずしもそうだとは思いません。
 ある条件を満たすことができれば、「トラウマ」は「愛されている」と感じるために必要な「幸せを感じる素」だと私個人は考えています。

 その条件をお話する前に、「悩みと感情の関係」について説明いたします。

 「悩み」とは「思い患うこと」と辞書には記載されています。
 「悩み」には大きく「感情的な悩み」と「理性的な悩み」があります。
 「理性」とは「道理で判断する心の働き」のことです。
一方、「感情」とは「物事に感じて起こる気持ち」のことです。
 上記のことから以下のことが言えると私は考えます。

 ①「理性がある」から物事の善悪を知ることにより、判断して行動することができる。
 すなわち、人と共存(お互いに依存しあう)することができる。
 ②「感情がある」から物事の善悪に関係なく行動できる。
 すなわち、喜びや苦しみを感じることができる。

 このように、「理性」と「感情」は、それぞれ役割が異なるため、「理性」と「感情」が同時に満足できる答えを見つけることは不可能に等しいと私個人は考えています。
 しかし、誰でも、たった1つだけその方法を知っています。
 その方法を説明するために、まずは「感情の種類とその性質」について説明いたします。

 まず「感情」には「怒り」「喜び」「悲しみ」「苦しみ」「寂しさ(孤独感)」などがあります。尚、ここでは「痛み」を「苦しみの1つ」と定義します。
 この「感情」はどのような時に感じるのかを時間軸で私なりにまとめてみました。
 
<過去の出来事>
 「何もなくなった」⇒「寂しさ(孤独感)」
 「何かを奪われた」⇒「怒り」
 「何かがなくなった」⇒「悲しみ」
 「何かがあった」⇒「喜び」

<今(行動した結果)>
 「思い通りにならない」⇒「苦しみ」
 「思い通りになる」⇒「喜び」

<未来の推測>
 「何もわからない」⇒「恐怖」 
 「何かを考える」⇒「苦しみ」
 
 私達の「今」は「過去」と「未来」の「狭間」です。 
 ですから、「行動するための悩み(未来の推測)」は「過去の出来事」すなわち「体験」によって感じた「感情」により「自分を知る(自己認知)」ことができます。
 ここで、もし「過去の出来事」に「何かがなくなった」ことを言葉にする機会が多ければ、「悲しみ」「怒り」を感じやすい人間になりますし、「何かがあった」ことを言葉にする機会が多ければ、「喜び」を感じやすい人間になります。
 その理由は「今考えている体験を通して選択肢を作り出す」からだと私は思っています。

 私が「成功体験」が大切であるという理由は「過去の体験」を「思い通りになる(嬉しさ)」を作り出すために必要だからなのです。

 だからこそ、「過去の出来事」は「自分の未来を作る礎」といえるのではないでしょうか?

 話を元に戻します。

 以下、治療方法になりますので、ブロマガ会員限定とさせていただきます。
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「馴れる」と「安心」の相違点について

人は平等に「馴れる」生き物です。
 人は「依存して生きる生物」であるため、「馴れる」ことは大変重要な要素(キーアイテム)になると私は考えています。
 私個人としては「馴れる能力」を使いこなすことこそ、「生きやすい(幸せな)」人生が手に入れられるのではないかと思っています。

 そもそも、「馴れる」とは「たびたび経験した結果,当たり前のこととして受けとめるようになる。」ことです。

 ですから私個人は、「苦しい経験に馴れる」からこそ、「精神的強くなる」のだと思っています。

ここで、「安心」とは「気掛かりな事が無く、心が落ち着き安んじること」です。

 それでは「馴れる」と「安心」の違いはなんでしょうか?

 今の私は「馴れる」=「安心」だと考えています。しかし、以前は違いました。
 以前は、「馴れる」⇒「何も感じない」、「安心」⇒「ほっとできる」と考えていたのです。

 私は「馴れる」ことを大切だと必ずしもおもっておらず、「馴れる」=「頑張っているから当たり前」と考えていたのです。
 
 しかし、私は自分に甘えていることに気づきました。
 「自分が頑張って続けてくれたから馴れることができている」にもかかわらず、私は「当たり前」と思ってしまい、「感謝」していなかったのです。

 そのことに気づいてからは「馴れる」に対して、「意識」するようになりました。

 すると、「馴れる」=「自分は頑張れたんだ」と「認識」できるようになり、「馴れる」=「安心」を感じるようになったのです。

 「馴れる」は「結果を手に入れるためのプロセス(過程)の1つ」にしかすぎません。
 例えば、ゴルフで「300ヤード飛ばしたい」を(結果(ゴール)とした時、「毎日ドライバーで玉をうった」ことは「慣れる」ことにあたります。
 「目的」は「300ヤード飛ばしたい」なので、以外と「毎日ドライバーで玉をうつ」ことに目も向けないことが多いのです。
 もし、「毎日ドライバーで玉をうつ」ことができても、必ずしも「300ヤード飛ばした」ことにつながるわけではないので、「ストレス」が生まれてしまいます。
  しかし、「馴れる」を「意識」するようになると、「毎日ドライバーで玉をもつ」ことじたいが、「ここまでできた」という「ゴール地点」にすることができ、「自分は毎日ドライバーで玉をうつことまでできた」と認識することができるのです。
 これこそが「一休み地点」なのかもしれません。
 そして、同じことをすると「飽きる」ために、「新しい課題」を探そうとします。
 そして「ただ毎日ドライバーで玉をうつ」だけではなく、もっとほりさげることにより「フォームがおかしいのではないか?」などと新しい課題に気づけるようになり、「深さ」が生まれます。
 「同じことを繰り返す」ことは、「深さ」を生みだしてくれるのではないでしょうか? 
 この「深さ」こそが「新しい安心を作り出すコツ」だと私は思っています。
 
 皆様は「馴れる」=「つまらない」と考えますか?それとも「馴れる」=「新しい安心を作るチャンス」と考えますか?
 私は「新しい安心を作るチャンス」と考え、「馴れることに甘えない自分に優しい人間」になろうと思って前へ進んでいます。

「依存できること」は「幸せを感じる」こと

 人は「依存する」生き物です。
 言い換えれば、「依存する」ことができなければ「孤独」を感じ「生きる」ことができなくなります。
 すなわち、「自分で生きることを否定している状態」ということができるでしょう。
  しかし、人は無意識に「依存する」ことを覚えており、自分の意識的には「依存しているつもりがない」状態であることを忘れていませんか?
 誤解しないでほしいことがあります。
 それは「人や物に依存する」ことが「苦しい」を作り出すのではなく、「自分の意思で依存する対象をコントロールできない」ことが「苦しい」と感じさせているということです。
 私個人は「自分の意思で依存する対象をコントロールできる」ことを「感情をコントロールする」と定義しています。
 
 ここでのポイントは「無意識」は「自分の意思でコントロールしていない」状態であり、「意識(理性)」は「自分の意思でコントロールしている」状態です。
 
 私の個人的な考えですが、そもそも「感情をコントロールする」というのは、「意識の自分が無意識の自分(脳信号:感情)を受け入れ、無意識の自分を納得させて行動する」ということだと私は思っています。

 例えば、覚えている方は少ないと思いますが、子供の頃に初めて学校にいくことへ最初から「どうして学校にいかないといけないの?」と疑問をもって通う人は少ないでしょう。

 その理由は「学校にいったことがないから」です。学校にどうしていかないといけないのというよりも「学校って何するところ?」と考えている子供の方が多いと思います。

 ここで大切なのは「動機(自分の思い)」です。「動機」とは「その時々の行為を引き起こす機縁となるもの」です。

 学校の例でいえば、「みんな学校に行っているから仲間はずれになりたくない」と思う子供もいれば、「ランドセルをかるってみたい」と思う人など人それぞれ「動機」をもちます。
   
 しかし、「動機」は、「行動する前」であれば「やる気を引き出す」という長所になるものの、「動機を実現する」ことにより「達成感」が得られるのです。
 
 すなわち、「動機」とは「自分の欲望を作り出す」ことであり、「満たすことにより幸福感を得られる」ことといえるのではないでしょうか?

 しかし、現実は「動機を実現する」ことなどできないことが多いです。「実現できない動機」を私は「ないものねだり」と定義しています。

 例えば、「早く働きたい」といっても子供は「働く」ことなどできません。できることは「夢を見る」ことだけなのです。そして、子供は、「今は子供だからしょうがない」と「諦める」ことを覚えます。

 しかし、「諦める」ことは「苦しい」ことがあります。それは「自分の意思で諦めることができない」であり、「諦めさせられる」時なのです。

 この時、「無意識」は自分を「苦しい」と感じさせます。例えば、上記例の「早く働きたい」であれば、「社会」が「子供が働く」ことを許してくれません。
 しかし、子供には「社会は目に見えない」からこそ、「目で認識できる親」に対して、「怒り」をぶつけます。これを親は「わがまま」と考えます。
 ただ、忘れてはいけないことは「親を困らせたい」のではなく、ただ純粋に「動機を実現したい」だけなのです。
 すばらしい親は「働きたい」と思う子供に対して、例えば「お医者様ごっこ」を一緒にしてあげたりするでしょう。
 子供は「親の考えた代替案」によって、「楽しい」と感じることにより、「諦める」ことを覚えることができるのです。
 これを自然と繰り返すことにより、子供は「自分で代替案を考える」ことができるようになります。
 大切なことは「動機を実現正する」」ことにより、「苦しい」を感じないで「楽しい、嬉しい」と感じする」ことではありますが、すぐに「実現できないこと」であれば、「実現できそうな動機に修れるようになるのです。

 しかし、「動機を実現する」ことを諦める必要はありません。「実現できそうな動機に修正する」際に「動機を実現するために必要なこと」であれば、1歩ですが「動機を実現する」ことにつながるのです。
 こうして、「動機を実現するために必要なこと」を「最初の動機を実現する」方向に「実現できそうな動機に修正する」ことを繰り返し行うことにより、「最初の動機を実現する」ことができるようになります。
 これこそが「感情をコントロールする」ことだと私は考えています。この「感情をコントロールする」ことこそが「心の自立」だと私は考えます。

 以上のことをまとめると、私は以下のようなことがいえると考えます。
  ①「依存する」とは「動機を実現すること」です。
  ②「依存できる」とは「最初の動機を実現するために、最初の動機を 実現する方向に実現可能な動機に修正し、修正した動機を実現すること」です。
  ③「依存できない」とは「動機を実現しないで我慢すること」です。
  ④「鬱状態」は「動機を作ることに対して恐怖を感じる状態」のことです。
 「依存できる」ことは「自分の意思で喜びの感情を作り出す」ことが可能だからこそ、「幸せになる感情をいつでも自分で作り出せる」ため、「安心」を感じれるのだと私は思っています。
 そして、「動機(自分の思い)」を実現するためには、必ず自分以外の何かが必ず必要だからこそ、「人」や「物」を大切にしたいと自然に思えるようになるのではないでしょうか?
 
 貴方様は「幸せを感じたい」ですか?それとも「人に迷惑をかけたくない」ですか?
 私は欲張りなので、両方です。

 私は「人に迷惑かけない中で自分の幸せをみつけたい」という思いから、「自分も相手も幸せを感じる行動」を心がけています。

 そして、「人に迷惑かけない中で自分の幸せをみつけたい」と思えるようになったのは、「私が周りに迷惑かけた」こと、「周りが私に感謝してくれた」こと、その両方を体験したからこそ「自分は1人じゃ生きていけない」ことを受け入れることができました。
 「自分が幸せを感じるために悪気がなくても周りに迷惑かける」こともありますし、「周りが幸せを感じても私が幸せを感じれない」こともあります。
 でもこれだけは自信もっていえることがあります。
 「自分が幸せを感じる」行動を自分の力で行動すれば、「100%自分は幸せを感じる」ということです。
 そして、そこに「周りが喜ぶ」という考え方もいれれば、「今の自分のため、そして相手のため」という結果が得られます。
 もちろん、「相手のため」に行動した結果は、「相手が感じること」だから、私にはわかりません。
 だから、私は行動する前に「相手から認めてもらう」ことにより、周りも巻き込んで「行動」するかどうかを決定します。
 すると、私は自分の幸せと感じることしか行動しないため、「幸せ」を自分で感じることができるようになり、時には「周りから感謝の言葉」や「私を大切にしてくれる行動」をしていただけるようになりました。
 これこそが、私がなりたい私だったと今では思っています。これを毎日続けることにより、私は後悔しない人生を歩めるという自信を持って、毎日を過ごしています。

「過去」や「未来」よりも「今」を大切にする私の理由


 あるアニメの歌でこんな歌詞があることを思い出すことがあります。
 
 「幸せは歩いてこない、だから歩いて生きるんだね。一日1歩、三日で3歩、3歩あるけば2歩さがる。」
 
 私にとってこの歌は以下のような意味で理解をしています。

 人は幸せを求めて歩いている。
 しかし、幸せは人と分かり合えることはできても、人に与えてもらうこ
とはできない。
 だから、自分で探すために歩いている。
 わからない答えを探すことはどうすればいいのかわからない。
 だから、いつも苦しい。
 それでも、前に歩けば、自分の見える風景は必ず変わる。
 苦しい時には逃げ出してしまうこともあるだろう。
 自分が納得できなくても、逃げだしてしまうほど苦しかったんだからそれでいいじゃないか。
 だから、その分嬉しい時や楽しい時に前へ歩こう。
 自分で歩くことができれば、必ず気づける日がくる。
 気づける日が来ることはないと思う日もあるだろう。
 その時は自分の意思で決めれば前へ歩くことを諦めてもいい。
 そうすれば、前へ歩くことを諦めてもいつのまにか歩き続けている自分に気づけることもある。
 前へ歩くことを諦めるから、諦めていない自分を知ることができる。
 無理に今諦める必要はない、諦めるのはいつでもできるのだから。
 時には人に愛されたいと感じることもあるだろう。
 その時は素直に「愛されたい」といえばいい。
 「恥」や「プライド」はもたなくてもいい。
 持っていても、「苦しい」だけなのだから。
 そうすれば、いつか必ず気づけることがある。
 それは「愛されたい」といえる人が側にいることの有難さに。
 
 前へ歩くことは今しかできないと感じれる日が必ずくる。
 そうすれば、いつか必ず気づける。
 「幸せは探すものじゃない、幸せは感じることである」ということに。
 そして、幸せを感じることができれば必ず気づけることがある。
 幸せは自分の人生そのものであること。 
 幸せは過去にはない、今感じるものであること。
 「幸せ」は人に奪われない自分だけの宝物である、それが「幸せ」なのだから。
 「幸せ」であっても、「苦しい」ことは「苦しい」。
 「苦しい」時は「過去」を振り返って「宝物のありがたみ」」を感じればいい。
 そうすれば「やる気」が生まれる。
 そして、新しい「幸せ」を作る為に、また1歩、また1歩前へ歩く。

 「幸せ」を見つけたら人に自信を持っていえばいい、「私は幸せである」ということ。
 そうすれば、もっと「幸せ」を感じることができる。
 そして、「幸せ」を知ったからこそ、心がけることがある。
 一日1歩をこころがける。後ろに下ることもあるだろう。でも、それはもっと前に進むために今の自分がしらないことにきづくチャンスである。
 そうすれば、必ず気づける。今も「幸せ」であるということに。

 あなたは「今」歩いていますか?病気であろうがなかろうが、「今の時間」は平等です。
 その「時間」は二度と戻すことはできません。
 だから、「今の時間を大切に過ごす」ことは病気であろうが、なかろうが誰にでもできます。
 もちろん、やり方は人それぞれ制限があるでしょう。だったら、今あなたができることを「大切にする」ことをしてみませんか?
 私は「思ったことをやりたいこと」とするのではなく、「今の自分ができること」こそが「やりたいこと」だと思っています。
 その理由は「病気で苦しい」であれば、「苦しくなくなるようにリハビリを頑張る」以外に「幸せを感じる方法」がわからないからです。
 そして、「病気を克服する」ことができれば、自分はもっと強くなるため、同じ病気に悩まされないように、今度は「予防」に努めるでしょう。
 そして、いつか「病気を克服して予防も心がける」ことができるようになった時、私は「自分をもっと好きになる」ことができると思います。

 「過去」には「思い出」があります。しかし、「思い出」とは「事実」ではなく、「自分の思い」です。
 「事実」はかわりませんが、「自分の思い」はかえられます。
 
 私の尊敬する方が私にすばらしい言葉を教えてくれました。その言葉とは、「良い思い出だけ覚えておく」ということです。
 そうすれば、「良い思い出だけを覚えておく」癖ができるため、いつのまにか「悪い思い出」を忘れてしまいます。
 しかし、時には「悪い思い出」を思い出すことがあります。しかし、その時には「悪い思い出が良い思い出」に新しく作りかえてもいいのです。
 これこそが「許す」ということではないでしょうか?
 
 すべては「自分次第」です。人の行動は制限されますが、人の思いだけは「制限されるものなどない」のですから。

 私は欲張りなので、「過去」も「今」も「未来」もずっと「幸せを感じる環境」を自分の力で整え、「過去の自分」から「幸せな思い出」で「今の自分」に幸せを感じさせ、「未来」の自分は「いつか」ではなく「今の自分」が「幸せを感じる」ために行動し、すべては「自分が満足できる自分という人間になるため」に私は今を精一杯生きています。
ブロマガ

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よっし~2

Author:よっし~2
 精神病の彼女と僕が精神病を乗り越えて結婚までを描いた日常を「ドラマ」に記載しております。今では彼女から妻へ変わり、さらに病状は日々改善しております。
 その際、介護側である私が思いついたことや、病気の紹介などを「治療方法」に記載しております。
  2013年2月より「精神病の彼女と僕 ~私と彼女が幸せを掴むために~」が「まぐまぐメルマガ」でデビューすることになりました。
 もちろん、本メルマガは無料であり、週間となっております。ご興味のある方はご登録のほどお願いいたします。
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