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「納得」できない原因とは?

 人は誰しも過ち(失敗)を犯す生き物です。しかし、「失敗」から「成功」に変えることにより、「自分の失敗を許す」ことができると私は考えています。
 その理由は「成功体験」によって、成功できなかった理由を自分なりに見つけ出すことができ、「納得する」ことができるからだと私は考えます。
 しかし、精神病になってしまうと、「不安(違和感)を減らす物質であるドーパミン」の減少によって、以前よりも「不安」が増えてしまいます。
 すると、「失敗」が続くと、「何をしてもできない」などと感じ、うまくできない自分を責めてしまうのです。
 すなわち、「成功」をすぐに手に入れることができないため、「自分を責める」ことになっているのです。
 「自分を責める」ということは、「自分で自分を大切にする」ことができないことにつながり、病気の原因である「ドーパミン」を増やすことができません。
 ドーパミンは「楽しい」「集中する」「体を動かす」などによって作るため、「自分で自分を大切にする」ことができなければ、ドーパミンは増えないのです。


 私の妻の場合は「体が動かない⇒自分責める」と考えてしまい、それが「体が動かない⇒自分を責める⇒体が動かない⇒・・・」というループにはまっていることにきづいていません。
 ですから、「自分で自分を大切にする」ことができない限り、「ドーパミン」を作ることは難しくなって、「体が動かない」ようにしかならないのです。


 もちろん、私はすでに妻に上記の話をしています。しかし、「納得」ができないのです。
 「納得」できない理由は、妻は「体がだるくなければ、動ける」と妻は考えており、「体がだるいからといって、何もしていない自分を責めるのは当然ではないか?それをほめることなんてできない。」と考えているようです。
 今の妻は「何か(例えば家事)をする」ことができれば、「自分を責める必要がない」と思こんでいると私は考えています。
 私がそのように考える理由は「妻は何かができても自分を責める」からです。
 先ほど述べたように、精神病は「不安」をつくりだしてしまうため、すぐに「成功」を望んでしまいます。
 例え、体が動けても、「やる気」が起きなければ、何もする気になりません。
 その時は「やる気」がでない自分を責めるのです。
 今の妻には「自分を大切にする」ための「成功体験」を実現することは困難になっているということになります。
 ここで、「成功体験」は「自分を許す」を作り出すための手段になります。
 また、「許す」は「「納得する」ことで得られます。
 すなわち、「成功体験」⇒「納得できる理由を作る」⇒「自分を許す」の順で「自分を許す」ことがいえるのではないでしょうか?
 「自分を許す」は「自分を大切にする」ことにつながるため、ドーパミンを作りやすくします。
 ですから、「自分を許す」ために「なぜ自分はできないのか?」を「今はできなくて当然だ」などと感じ、「納得」することができれば、「自分を許す」こともできると私は考えました。
 「納得する」とは、「同意する」「受け入れる」などの意味があり、「そりゃそうだ」と腹にストンと落ちるような感覚のことです。
 いいかえれば、本人が「自分で気づいていない」ことに「自分で気がつく」こととも言えるのではないかと思います。
 「気がつく」のは「自分自身」であり、「気がついていない」のも「自分自身」なのです。
 「気がつく」ためには、「自分はどのように考えているのか?」と「相手(又は事象)はどのように考えている(なっている)のか?」、そしてその視点の違いを明らかにすることによって、「自分が注目していないことがある」ことを知るのです。
 
 すなわち、「納得」を手に入れるためには、「自分を知る」ことが必要ということです。
 もし、自分のことを知らなければ、「自分がどのような考えなのか?」もわかりませんし、「どうしたらよいのか?」も考えることもできません。だから、他人に「甘える(与えられる)」しかできなくなるのです。
 「納得できない」のは、自分は自分に対して、「無知(自分を知らない)」であることに気づいてください。
 「無知」は「不安」を作り出します。そして、「何もわからない」ため自分で「不安」を解決することもできません。
 精神病の方の多くは自分に対して「無知」です。だから、精神病を克服した方は「きづく」ことで、「納得する」ことができ、「納得する」ことで「自分を許す」ことにつながり、「安心」を手に入れ、病気を治すことができるのです。
 精神病を治せる人がいる限り、精神病の人は自分を治すことができます。
 治せない方は、ただ自分が自分自身に対して「無知」であり、「納得」することができていないだけです。
 「納得」できれば、「自分を許す」ことができて病気も自然と治ります。少なくとも、私はそうでした。
 「自分を知る」力を高めて、「納得できる」技術を強くできれば、「精神病」を防ぐこともできます。
 人は「理性」「感情」と2種類が混ざりあうために、「混乱」を生じます。
 「混乱」を避けるためには、「感情」なのか「理性」なのか切り分けできなければ、「自分を知る」ことは難しいです。
 そのためにも、自分の気持ちを整理してみてください。
 もし、「整理方法」がわからない場合は、そのことを他人に相談してみてほしいです。
 答えは必ず身近にあることがほとんどです。ただ、自分が気づけていないこともたくさんあることをご理解いたただけると幸いです。
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人が生きる目的とは?

 私がうつ病時代に、「俺はなんでいきているんだろう?」と感じた時の話を妻宛へ記載したものです。結局、妻にはみせていません。
 その理由は、妻が自分で見つけようと頑張っているからです。せっかく書いたので、皆様にも読んでいただきたく、ここに記載いたしました。
 若い頃の私の考えなので、考え方が甘いこともたくさんあるかもしれませんが、うつ病を発症し、うつ病を克服した私の経験談を是非お読みいただけると嬉しいです。

<本文>
 俺が昔、何を頑張っても楽しくない時に悩んだ時の話です。
 俺の出した答えがすべてではないけど、参考までに読んでもらえると嬉しいです。

<題名:生きるって何?>
 「生きる」のは「自分の体を守っている」結果だと俺は思ってる。
 俺は昔、「何のために生きてるんだろう?」と考えていた。でも、その答えはすぐに見つからなかった。
 そんな時、「なぜ生きているのか?」と考えた。それが「自分の体を守っているから生きている」という事実に気づいた。
 ということは、「自分の体を守る」から「生きている」だけなのだから、「自分の体を守る」限り、「生きる」結果しかでない。
 それならば、「生きる」目的など自分で作らなければ最初から何もないことにも気づいた。
 「生きる」目的などなくても昔は楽しく過ごせたのだから、今は「生きる」目的など考えても意味がない。
 だったら、「自分の体を守る」ことをしなければ、結果的に「生きる」こともないことになる。
 だから、俺は「自分の体を守るのは何のため?」と考えた。
 人は「恐怖や不安などの不快感」があれば、取り除こうとする。その理由は「嫌」だからだ。
 つまり、俺は「恐怖や不安などの違和感を感じたくない」ために「恐怖や不安などの不快感」を取り除いた結果、「自分の体を守っている」にすぎないだけだったことに気づいた。
 結局、「生きる」とは俺が「嫌」と感じることを取り除いた結果に過ぎなかった。 
 だから、俺がしたいことは「嫌」と感じないようにすることだということに気づいた。
 「嫌」と感じないようにするためには、「嫌と感じないこと」を目的とすればよいと思った。
 「嫌と感じないためにはどうしよう?」と俺は考えた。その結果、1つの答えにいきついた。
 それは「幸せ」を目的にすることだ。なぜなら、「幸せ」とは、現状に満足しもうこれ以上の上を目指さなくなることだからだ。
 俺は「満足」すれば、「嫌」と感じないし、これ以上「頑張る」必要もないと思った。
 だから、「幸せ」になることを「目的」としたのだ。
 だったら、俺は「満足」できる行動を探せばいい。「満足」できれば、「これ以上頑張る」ことも「嫌」な気分になることもないのだから。
 でも、どうやったら「満足」できるのか?これまで経験した中で「満足できた」と感じる瞬間を考えた。
 例えば、お腹がすけば「食べたい」と感じる。そこで、「ご飯を食べる」と「小さい満足」が得られた。
 でも、「お腹がすいている」を「我慢」すると「死にそうなぐらいお腹がすく」ためとても辛い。でも、「ご飯を食べる」と「大きな満足」が得られた。
 ということは、「我慢」すれば「大きな満足感」が得られるが、「辛い」も同時に得られる諸刃の剣だと感じた。
 だったら、俺は小さい「我慢」をして「小さい満足」を得る方が「満足できる」と思い、俺は「小さい満足」を選ぶことにした。
 「小さい満足」はどうやって探すのだろうと考えた。その結果、1つの方法を考えた。
 ①必ず成功できることに対して、少し「我慢」して「○○したい」と感じたら「行動」し、「小さい満足」を得る。
 しかし、実際に何度も同じことをやっているともっと「大きな満足」が欲しくなることがわかった。
 だから、俺は「大きな満足」を欲しがる自分を懲らしめるために、自分ができることで「不快な気分になること」を行動した。
 俺は自分のできないことや、やったことのないことに「不快感」を感じる。
 だから、「大満足」が欲しかったら、「不快感を克服」させるのだ。
 この考え方が「自分に厳しくする」という意味だったのかもしれないと感じた。
 もし、「大満足」することができれば、俺は「不快感」が減り、「行動範囲を広げる」こともできる。
 もし、それに、失敗しても、「もっと満足したい」という自分の「感情」を抑えることもでき、どっちに転んでも、俺は「満足」につながることに気づいた。
 こうして、俺は「失敗しても満足できる方法」に気づけたことになった。
 俺は「失敗は必ずしも怖いものではない」ことをしった。「失敗が怖い」と感じるのは、「自分が満足できる方法にきづいていない」からなんだと思った。
 だったら、「不快感」を感じた時は「自分が満足できる方法」を見つける行動をすればよいことに気づけた。
 昔の俺は「不快感」を他人にあたる、又は物にあたることしかできなかった。
 しかし、今思えば「自分がどうすればよいのかわからない」から他人にあたったり、物に当たったりしたのだということにも気づいた。
 しかも、他人から嫌なことを仕返しされたり、物にあたっても自分が後でショックを受けるだけであることをしった。
 相手や物に対して、自分が嫌だと感じることをすると、結局自分の責任で周りを苦しめることにもつながることにも気づけた。
 今は「自分が満足できる方法を見つける」ことで、「不快感」を失くすことができることがわかった。だから、他人から嫌なことを言われても、「自分が満足できる方法」を探した。
 そして、「他人も自分も満足できる結果がえられる行動」にたどり着けた時、俺が「満足」するだけではなく、周りも「満足」することで、俺は周りから「感謝」されることを知った。
 そのときの俺は意識して、「周りのため」に行動していなかった。
 ただ、「自分が満足する行動」が周りも「満足する」ことにつながっただけだったのだ。
 俺は気づいた。自分が満足することが他人に迷惑をかけないことだが、自分を満足させる方法が周りも満足できれば、周りから「感謝」され、俺はさらに「大満足」を手に入れられることを知った。
 俺は、「満足」をくれた周りに「感謝」した。なぜなら、「満足」を作ったきっかけは自分かもしれないが、周りが俺に「感謝」を伝えてくれなければ、俺は「周りも満足している」ということに気づかなかったからだ。
 それからの俺は、他人に「感謝」を伝えるようにした。
 その理由は「満足」のおすそ分けをするためだ。他人は俺が自分のために「満足する行動」をしても、「他人も満足」できれば、俺に追加して「満足」をくれるからだ。
 すると、また新しいことに気づいた。周りから「感謝」の言葉を言われる回数が増えたのだ。
 俺は気づいた。「俺が周りに感謝する言葉を伝えると、周りも俺に感謝していることを話ししてくれるんだ」と言うことに気づいた。
 そして、俺はある時、はっと気づいた。俺には「不快感」がなくなっていたのだ。だから、俺はいつのまにか自分で「不快感」に飛び込んで「行動範囲」を広げていたのだ。
 よくよく考えれば当然だ。「満足」すれば「違和感がない」のだから、「気にならない」が手に入ることだ。
 だから、俺は「気にならない」から、俺は「幸せ」を手に入れたことに気づいていなかったのだ。
  こうして、俺は、いつのまにか「幸せ」になっていたのだ。
 まとめると、以下のようにいえる。
 「幸せ」は「嬉しい」ではなく、「何も感じない」結果がえられることだ。
 ただ、「すごく幸せ(大満足)」は「嬉しい」も手に入る。だから、人は時に「すごく幸せ」をほしいと感じるわがままな存在だ。
 誰でも「すごく幸せ」はほしい。でも、その分「苦しい」気持ちを感じなければ、自分では手に入れることができない。
 だから、「すごく幸せ」を感じれることに条件をつける。
 それは「今はできないことをできるようにする」方法だ。それを「目標」として人は生きる。
 そして、「目標を達成する」ことができれば、「すごく幸せ」を手に入れることができる。
 当時の俺には、「目標」が未来にありすぎた。当時の俺の目標は「縁側で結婚した人と一緒にお茶を飲むこと」だからだったからだ。
 未来すぎて、すぐに「すごい幸せ」は手に入らない。当然だ。
 だったら、今できることを「目標」とすればいいことに気づいた。
 当時の俺は「楽しくない」ことが悩みだったので、「楽しい」と感じることを探すことを目標とすればよいのだ。
 でも、当時の俺には「楽しい」と感じれる方法がわからなかった。
 だから、俺は「楽しい」と感じることを数えることにした。
 すると、同じことを繰り返すと、「楽しい」と感じれないことがわかった。だから、俺は新しいことに挑戦した。
 もっと「楽しい」の数を増やすために、他人に相談することをしたのだ。
 人の話をきくと、自分の知らないことだけでなく、自分がきづいていなかったことも知った。
 そして、いつの頃からか、「やらなければならないこと」で自分が「嫌」と感じたことも、「楽しめる」ことを知った。
 俺が「嫌」と感じるのは、「嫌なことやってるけど大丈夫?」と体が俺に教えてくれるサインだ。
 自分で嫌なことに行動することを選べば、行動止めれば怖くないのだから「行動しなければ怖い」ことはない。だから、「嫌」と感じていることでも、「俺のためになる」ことであれば、俺は「挑戦」したのだ。
 もちろん、人に強制的にやらされると、「やらされている」と感じるので、ますます嫌いになる。
 しかし、自分で行動すれば、「嫌」と感じることが怖くなくなるのだ。
 この時から、俺は「嫌」なことでも「目的(何のため)」を見つけることができれば、行動するようにしたのだ。
 他人に強制されることは嫌だが、自分で挑戦する分にはいつでもやめることができる。
 できないことは、人に言われてやるのではなく、自分で挑戦することにより、「嫌な気持ち」は小さくなる。
 だから、是非嫌なことにも「挑戦」し、「すごく幸せ」を手に入れられるように俺はなった。
 だから、今は「幸せ」を自分で作ることができる。少しでも多く「すごい幸せ」を感じるためにも、俺は日ごろから「種まき」をして少しづつ育てることで、「すごい幸せ」も定期的に手に入れるようにしたのだ。
 これが俺が自分のために考えた「精神病改善方法」であり、「幸せ」を手に入れる方法だ。
 参考にしてもらえると嬉しいです。

「思い込み(認知のゆがみ)」の治療方法概念について

今回は、精神病患者の「思い込み(認知のゆがみ)」の治療方法概念を記載いたします。
 私の考える「精神病」とは「自分で自分を大切にできない」ことにより、「自分が自分を傷つける」ために、中々鬱状態から抜け出せないということを今までご報告してきました。
 そして、少しでも多くの方が「自分を大切にする」ことができるように、「自分がなぜこのような行動をするのか?」などを、少しでも「納得」できるようにご説明してきたつもりです。
 しかし、前回も記載いたしましたが、「不安」になると、「冷静さ」を保つことができず、患者の多くは「自分を大切にできていない」結果となっていることに気づいていません。
 そして、患者は「私は一生病気が治らない」と思い込んでしまい、「苦しい」自分を助けるために、「自傷行為」などをしてしまうのです。
 ここで、重要なことは、「自分を大切にできていない」ことを「自分の意思」がはっきりしている時に、「早めに気づく」ということになります。
 「自分を大切にできていない」事象は無限にあり、個人の考え方に依存するため、「自分を大切にすることが得意な分野」、そして「自分を大切にすることが苦手な分野」に別れてしまします。
 大切なことは「自分を大切にすることが苦手な分野」を失くすことにあるのです。
 「自分を大切にすることが苦手な分野」とは、「問題解決した経験が少ない」又は「知識がない」ことによって、「解決方法」を導きだせないことです。
 例えば、「食べ物の好き嫌い」でご説明いたします。
 「食べ物の好き嫌い」は多くの方があると思います。
 多くの方は「食べない」という手段をとり、「食べれるようにする」という手段をとる方は少ないかと思います。
 「好き嫌い」を持つ人の多くは、幼い頃に「嫌」と感じた食べ物を親から強制的に食べさせられることにより、「嫌い」になります。
 これは「嫌」という「原因」を明確にしないで、「嫌いな行動をさせる」を半強制的にさせられることにより、「嫌な思い出」を作ることになってしまうのです。
 もし、子供が「嫌」と思う理由を失くし、例えば「見た目が嫌い」である場合は「料理方法を変更する」ことにより、「食べてみよう」と子供が自分の意思で行動することで、「克服」することができるのです。
 私は好き嫌いな物がないのですが、私の場合は父にご飯を食べさせてもらえない、さらには殴られる行為により、結果的に何でも食べられるようになりました。
 これは「嫌いな物」よりも「危険なこと」の方が私にとって「恐怖」であったため、「危険なこと」を避けるために「嫌いな物を好きになる方法」を自分で見つけ出したのです。
  話はそれましたが、「好き嫌いがある」ということは、少なからず「不安」を抱えるということになります。
 その理由は、「嫌いな食べ物は存在するため、目に入ったり、匂ったり、食べたりしなければならない時がある」からです。
 「好き嫌い」を持つ人の多くは、「嫌いな物を抜く、残す、入れない」などの方法を取る方が多いと思います。
 もし、「嫌いな物を残す」ことができない場面があった場合、「嫌いな物がでてほしくない」と願うはずです。
 その理由は「食べない手段がない」からになります。そして、「食べる」ことになった時、大変な「苦痛」を感じることになります。
 すると、本人は「苦痛」を感じているため、「自分を大切にできない」結果となります。
 状況によっては、「食べさせる人が悪い」「作る人が悪い」などと「他人の責任」にする人もいますが、実際の原因は「嫌いな物がある」であり、「嫌いな物がある」という「事実」がなければ、他人の責任にする必要もないのです。
 人によっては「好き嫌いをもつ本人が悪い」という人もいますが、私は必ずしもそうとは思えません。
 なぜなら、「好き嫌いを失くすように、一生懸命努力する」人が「今はまだ嫌い」という状況もあるからです。
 実はこの例が「精神病」の人だと私は考えています。
 「仕事をする」を例にいうと、「お金を稼ぐ」ために「仕事したくない」と思いながらも頑張って仕事をする人も多いと思います。
 しかし、好き嫌いに限らず、人によっては何度チャレンジしても、「仕事をする」ことができない人もいるだけです。
 自分のできる限り「挑戦」している人を私は「働けない人が悪い」と思えません。
 むしろ、そのような方を「批判」する人は、「自分ができることを他人ができない」といっているのと同じであり、「他人を馬鹿にする人」のように感じるため、軽蔑したいです。
 私には「歩く」ことができない身体障害者に、「足のない奴が悪い」と言っているようにしか思えないからです。
 話をまとめますと、「不安」になる「原因」は「苦手なことを克服することができていない」からであり、「苦手なことを克服する」ことによって、「自分を大切にできる」ということです。
 精神病になる方の多くは、「不安」によって苦しめられます。
 しかし、今までは「不安を取り除く物質であるドーパミンがあった」からこそ、自分であまり意識していなかっただけであり、今は「ドーパミンがなくなった」からこそ、「自分ができていない問題」が「浮き彫り」になった状態なのです。
 すなわち、自分が「自分はできていた」と思っていたことは、本当は「自分はできているつもりだった」だったのです。
「自分はできていた」と思えた理由は「ドーパミンがあった(我慢することができた)」からなのです。
  「食べ物の好き嫌い」の例のように、「嫌いな物がある」=「不安」となることすら、「気づいていない」のです。
 このように、「我慢」してしまうと、「不安」を取り除くことをしない方が増えているのです。
 「我慢」する理由は大きく2つあります。1つ目は「嫌だから」であり、2つ目は「めんどくさいから」です。
 「嫌だから」の多くの理由は「どうすればよいのかわからない(恐怖)」からです。
 一方、「めんどくさい」の多くの理由は「克服する理由が見つからない(やりたいと思う理由(目的)がわからない)」からです。
 2つの理由に共通していえることは、「苦しまない(安心する)ために必要なこと」であることに「気づいていない」ということです。
 多くの方は「仕事をする」の場合であれば、「嫌」と感じても「生きる(苦しまない)ためにやらないといけないこと」と認識しているため、「嫌」と感じても「挑戦」します。
 しかし、「嫌いな食べ物」に関しては「食べなくても死にはしない」などの理由から、「挑戦しない」のです。
 このように、人は「必要」だと感じないことは「挑戦しない」のです。
 ですから、「必要である」ということに「気づく」ことから始める必要があるのです。
 精神病の方は「必要なこと」ではなく、「必要ではないこと(我慢すること)」に「挑戦」してしまうのです。
 例えば、リスカットしてしまう人が「リストカットすることを我慢する(他人を傷つけないために頑張る)」ことに「挑戦」しても必ずといっていいほどできません。むしろ、「苦しい」だけです。
 その理由は「我慢」は「原因を取り除く手段ではないから」なのです。
 ここでいう「必要なこと」とは「原因の明確化」です。「原因」とは取り除くと必ずなくなるものです。
 食べ物の好き嫌いの例でいえば、「何を自分は嫌いなのか?匂い?それとも食感?色?」などであり、それを改善しても食べられない時は、「自分は食べられないと思い込んでいる」ことが「原因」となります。
 このように、「必要である」ということに「気づく」ためには「原因の追究」が必要です。
 「原因」を取り除かなければ、「息苦しい」ことになり、「苦しい」と感じることから「生きる意味」もわからなくなります。
 原因に気づくためには「行動」が必要です。なぜなら、「行動」することにより、「結果」がわかるからです。
 「結果」は「自分が満足できるかできないか」が必ずわかります。
 そして、「満足できる」場合は、「何も感じない」すなわち、「満足できる」が得られていることになるのです。
 「結果」は必ずしも自分が満足できないことの方が多いです。
  しかし、「結果」によって「苦しいか苦しくないか」が明らかになります。
 もし、「苦しい状態」のままで「私は特別だから仕方がない」と考えてしまう方は「苦しい」を放置することになり、結果的に「我慢する」ことへつながってしまうのです。
 皆様のお気づきかもしれませんが、「我慢する」は「苦しい状態をとどめておくこと」になり、これは「自分を大切にすることができない」ことになって、「もっと苦しくなる」につながり、病状は悪化します。
 話をまとめますと、「苦しい」原因は2つあります。1つ目は「目的意識がないこと」、2つ目は「恐怖と感じることに挑戦すること」です。
 是非、「恐怖と感じること」の原因を明確化するために「行動」してください。そして、「めんどくさいと感じること」は「目的を明確化」してから「行動」してください。
 この2つを繰り返し行うことで、必ず「苦しみ」を減らすことができます。
 もちろん、目的は「苦しくないこと」であるため、「苦しくない(気にならない)」結果が得られるまで頑張ってください。
 勘違いしないでほしいのは、例えば「仕事を休んではいけない」と思う方は「仕事を休む」ことが「怖い」ので、「仕事を休む」ことを実行してください。
 精神病の方の多くは「恐怖」が強いはずです。まずはこの「恐怖」と戦わねばなりません。うまくいくと、次第に「めんどくさい」へ変わります。「めんどくさい」と「恐怖」は別物です。「めんどくさい」は「恐怖」がなくなった証拠なのです。
 だから、「めんどくさい」になってから、「行動」してください。
 健常者は「恐怖」がなく、「めんどくさい」と感じる方が多いため、「頑張れ」という言葉を使います。
 仕事を例にいえば、健常者は「仕事へいくことがめんどくさい」ということです。だから、頑張って仕事へ行くことが重要と考えます。
 しかし、精神病患者の多くは「恐怖」と感じます。「恐怖」の対象は「仕事を休む」ことなのです。
 精神病の多くの方は「仕事へ行かないと甘えだ、怒られる、居場所がなくなる」などと思いこみ、「仕事を休む」ことが「恐怖」なのです。
 私からすれば、「仕事を休む」という「恐怖」から逃げるために「頑張っている」ように見えてしまいます。
 精神病の方は「頑張る対象」を間違って考えているのです。
 だから、「仕事を休む」ことが怖い方は「仕事を休む」ことを実行するのです。
 そうすれば、「仕事を休む」という「恐怖」がなくなります。
 「仕事をすることが怖い」と言う方は「仕事をする」ことを頑張ってください。
 精神病の治療目的は「苦しみをなくすこと」です。「仕事を休むことが怖い」と感じるにもかかわらず、「仕事をする」ことをいくら頑張っても「苦しい」だけです。
 人は「恐怖」と「戦う」ことで、「生きやすい」が得られるようになっています。
 なぜなら、「苦」がなければ「楽」も感じないからです。
 精神病の方は「恐怖」を向かい合うことを避けることで、「自分をますます苦しめる」ことを実行してしまいます。
 もちろん、「戦う」には「覚悟」が必要です。最初は1人で「恐怖」と戦うことは難しいです。
 だから、私が妻を支えています。妻が「恐怖」から逃げ出す時は「恐怖」と向き合うお手伝いし、妻が「恐怖」で疲れた時は「よく頑張ったね。少し、休もうか^^」と褒めるようにしています。
 私は妻が嬉しい時も辛い時も一緒にいます。妻が「恐怖」を感じている時は私も「恐怖」を感じます。
 もちろん、妻ほどの「恐怖」は私にないかもしれません。他人と自分の「恐怖」を比べることはできないので、私は妻よりも「恐怖」を感じないでかまいません。
 でも、私も「恐怖」を感じるのですから、私も「怖い」と感じるのは妻と一緒です。
 だから、私は妻にお手本をみせられるように、「恐怖」と戦うようにしております。
 妻と一緒にいないことが「恐怖」であれば、私は妻と一緒にいないようにし、ジェットコースターが嫌いであれば、乗れるように頑張ってきました。
 人によっては「恐怖でもなんでもない」と言われる方もいるかもしれません。
 でも、私は「怖い」ので、本当は行動したくありません。しかし、妻のためにと思う一身で「恐怖」に立ち向かっています。
 妻のために頑張ることで、いつも「達成感」が得られました。
 その「達成感」を感じさせれくれたのは、他でもない「妻の存在」なのです。
 最近の妻は、「恐怖」に立ち向かえるようになりました。最初は、「恐怖」が怖くて立ち向かうことができませんでした。
 「アルバイトを休むことが怖い」のであれば、私は休ませました。仕事を辞めることが怖いと思えば、仕事を辞めさせました。
 少しでも、妻の負担が減るように、お店の人へお詫びと謝罪を行いました。
 このように、私は妻の嫌がることを行動させてきました。当時の妻は私のことを「鬼や悪魔」などと思ってきたでしょう。
 もちろん、何度も私の元から逃げ出そうしたこともありましたし、もがき苦しんでいることもありました。
 それでも、私は妻を励まし、一緒に恐怖へ歩くことをしたのです。
 その結果、今の妻は自分で「恐怖」に立ち向かうことができ始めました。
 妻はイチゴが嫌いなのですが、挑戦して「イチゴを食べる」行動を行ったのです。
 自分から「恐怖」に立ち向かう妻を見て、私は嬉しくて涙がでそうになりました。
 たかがイチゴを食べると思う方もいますが、 
私にしてみれば「恐怖」に立ち向かう対象が「イチゴを食べる」なだけです。
 私にとっては、仕事や家事を両立することよりも大変難しいことだと思っています。
 そして、妻は変わってきました。今では買い物や家事、そして「嫌」と感じることを自分の意思でどんどん行動しているのです。
 頑張る対象が「恐怖から逃げ出す」ことから「恐怖に立ち向かう」にかわったのです。
 そうすれば、私がするべきことは「見守る」ことです。「助け」を求めれば、私は助けます。
 大切なことは「恐怖に立ち向かい、結果をだすこと」です。
 だから、人は悩みます。いくら恐怖に立ち向かっても、「成功」しなければ、「頑張った意味がない」と感じてしまうからです。
 「恐怖に立ち向かう」=「成功」だと感じれるようになることこそ、「自信」となり、「安心」をえることだと私は思います。
 皆様、苦しんでいることがあったら考えてみうてください。自分が何を嫌と感じているのか?  
 そして、実行してください。1人で実行する必要はありません。
 誰かと一緒にでも良いのです。大切なことは「行動」するということなのですから。

精神病患者が「恐怖を取り除く方法」について

 人は「恐怖(違和感)」を感じると、「嫌だ」と無意識に考えて「恐怖を取り除く」行動を行います。
 これは、人が生きるためにもつ「防衛本能」であることは以前お伝えいたしました。
 特に「恐怖」は赤ちゃんが「自分を守る」ために必要な「感情」になります。
 実はこの「恐怖を取り除く考え方」によって、精神病になるのか、ならないのかが決まります。 後はその考え方次第で、病名が決定します。
 話を元に戻します。幼い頃は「感情」⇒「行動」の順で物事を考えてきました。
 その理由は、「何も知らない」から「恐怖を取り除く方法がわからない」からなのです。
  例えば、赤ちゃんはお腹がすいても、うんちをだしても、「泣く」行動をします。
 ここで、赤ちゃんの気持ちになってください。 あかちゃんにとっては定期的に突然「違和感」を感じるのです。
 それがなぜなのかも、どうすればよいのかもわかりません。だから、赤ちゃんは「恐怖」を感じ「泣く」のです。
 面白いことに、それでも親は「子供がかわいい」と笑っています。
 このような親の行動は健常者も精神病患者も同じような行動をするでしょう。
 これはすべて「原因を取り除けば、安全であるということを予測できる」からなのです。
 もし、赤ちゃんが大人であれば、「俺はこんなに苦しいのに何で笑うのか?」と思うのでしょう。
 これが精神病患者と健常者の視点の違いです。
 でも、大人はその理由(原因)を理解し、赤ちゃんのために行動(原因を取り除く)します。
 だから、赤ちゃんは親がいると「安心」するのです。
 すべては、赤ちゃんが自分でご飯を食べたり、トイレにいったりするなど、「行動できない」からなのです。
 赤ちゃんは大きくなると、「恐怖」と「戦う」行動をします。
 この戦う武器こそが「好奇心」なのです。「好奇心」とは「珍しいことや未知のことなどに興味をもつ心」と定義されています。
 赤ちゃんは何も知らないため、すべてが珍しく興味を持ちます。
 そして、「触ったり食べたり舐めたりする」などの行動ことによって「経験」するのです。
 親は「子供を大切にしたい」と思っているため、「褒める」「怒る」などの行動をします。
 「良いこと」は「褒める」、「悪いこと」は「怒る」などにあたり、一般的には「しつけ」と言われています。
 「しつけ」とは「日常生活での行儀作法や生活慣習の型を身につけさせること」であり、目的は広い意味で言うと「子供が幸せになるため」です。
 基本的には「他人に迷惑をかけないこと」すなわち、「周りから大切にしてもらえる(愛される)」結果が得られるように「しつけ」を行うことになります。
 まずご理解いただきたいことは、「しつけ」とは「周りから大切にされるため」の「手段」なのです。
 しかし、子供は「何も知らない(無知)」であるために親の気持ちなど関係なく、「好奇心」を優先に生きます。
 一方、親は子供の行動内容によって「結果」がわかるため、「行動内容」によって「注意」することがあるのです。
 すなわち、親は子供に「注意するという恐怖」を与える存在でもあります。
 その理由は、親の視点でいうと「子供が周りから大切にされるため」であり、「未来」を考えていない子供の視点では「今行動したいことを制限されている」ように感じ、「生きづらさ」を感じることになります。
 この「生き辛さ」は子供にとって「嫌」な感情であり、次第に親を「憎む」ようになる原因となるのです。
 ここで問題です。親と子供の考え方の違いは何でしょうか?




 その答えは以下の通りになります。
  親:「目的(周りから大切にされるため)」 ⇒ 「行動(しつけ)」 ⇒ 「結果(子供の結果)」

子供:「感情(好奇心や恐怖、怒りなど)」 ⇒ 「行動」 ⇒ 「結果(嬉しいや悔しいや悲しい)」


 親の「結果」は「子供の行動結果次第」で、親の感情が「楽」にも「苦」にでもなるのです。
 残念ながら、親は自分自身で感情を作ることができません。なぜなら、最終的には、子供がきめて行動するからです。
 子供が「結果」を出せた時だけ、親は「楽」になることができます。
 所詮、親にできることは「支える(ここでは、しつけ)」ことだけなのです。
 親の視点でいえば、子供はたくさん「嬉しい」を感じさせる存在であると同時に「苦しい」もたくさん感じさせる存在でなければなりません。
 本当は親も子供に優しくしたいです。しかし、それでは、子供が「自分で自分を守る」ことができなくなります。
 なぜなら、子供は「自分で自分を守る」ことができないからなのです。
 今は親が子供を守っており、親は何れ子供を守れなくなります。
 だから、親は心を鬼にして、子供に「しつけ」を行うのです。
 親の目的は「親の都合の良い結果」ではなく、「周りから愛されるため」なのです。
 ではなぜ、親は子供を「怒る」のでしょうか?
 「できない」は「恐怖」を感じさせます。目的のない子供には、「恐怖と戦う」理由がないのです。
 だから、親は「恐怖は戦って乗り越えるものだ」ということを無意識に覚えさせる必要があります。
 それが「恐怖を与える(親が叱る)」役割になります。
 幼い頃の私で言えば、父に「怒られる」よりも「嫌いな物を食べれる」ようにする方が「楽」でした。すなわち、「嫌いな物を食べる」ことが「恐怖」ではなくなったのです。
 だから、私は好き嫌いがない、すなわち私が食べるもので他人に迷惑かけることはないという結果が得られたのです。
 話を元に戻すと、親は「自分で自分を守れるようにできる結果」をだせなければ、自分も子供も幸せにならないことを知っているから、年齢など関係なく、「怒る」行動をします。
 ということは、親が怒る必要のない環境を自分で作る、又は親に納得させることこそが、「自分で自分を守れるようになっている」という指標となるのです。
 親は子供に必ず1度は嫌われます。それでも親は子供を大切にする(しつけ)を行います。これが、「子供のため」という「愛情」になるのです。
 よく考えてください。親は何のために「自分が嫌われる(子供を怒る)」行動をするのでしょうか?
 子供は「世間体のため」や「親のため」などと色々と考えます。しかし、よく考えてください。
 親は子供が必要ないと思えば、捨てればいんです。子供を捨てて逃げ出す親もたくさんいます。
 それでも親は「見捨てない」事実も理解してほしいのです。
 「愛情」とは「褒める」と「怒る」の2面性があるということをここではご理解いただきたいのです。
 ここで、良い親は子供の視点で物事を考えるのですが、親は子育てを初めて経験するため、どんな親でも子供の気持ちを完全に理解することはできません。
 その理由は子供は「感情」を「目的」とするため、「子供の考え方を知ることができないから何をしたいかわからない」のです。
 「感情」は「考え方」によってかわります。「信頼できる人」と「見知らぬ人」によっても、例えば「馬鹿」と他人に言われても、「信頼できる人」であれば「冗談だな」と感じる人もいますし、「見知らぬ人」であれば、「何か迷惑かけたのかな?」などと「捉え方」が変わるのです。
 子供の気持ちを理解できない親は子供に対して、「目的(子供のため)」を連呼する方がいます。
 しかし、本当は「ごめんね、私には貴方の目的がわからない」という意味もこめられていることになります。
 必ず、子供の目的は親と別にあるため、「どこが自分のためなの?」から始まり、次第には「未来の自分のために今の自分を犠牲にしていいのかよ」などと感じるようになるのです。
  上記は親も子もすべて「正常」であり、目的を「子供の未来(子供は知らないこと)」にするか「感情を手に入れること(今を大切にする)」にするかの違いであるため、精神病要因にはなりません。
 ここで問題となるのが、親に対する子供の行動と、子供に対する親の行動です。
 親は子供に対して「嬉しい(成功体験)」を教える必要があります。
 「しつけ」は「手段」であり、「教える」ことが重要なのではなく、「良い結果を出させる」ことが重要なのです。
 そして、親は「良い結果を出させる」だけではなく、「子供を納得させる」ことも重要な要素となります。
  例えば、子供が油の中に手に入れて親が怒ったのであれば、親は「子供が油の中に手を入れない」結果を欲しいと思います。
 そこで、子供が「本当はぬるぬるして気持ちいいから触りたいのに・・・」と感じれば、子供は「親のため」に「我慢」することになります。
 ですから、子供の視点で言えば、「結果」とは「良い子」であることなのです。
 でも、親が望むのは「結果をだして周りから大切にされてほしい」なのです。
 もし、子供が「ぬるぬるして気持ちいいから触りたい」と親に甘えた際、例えば「親と一緒だったら、油を触っていいよ」などといえば、子供も親も満足できることになり、子供は親を信じよう、又は話しようとします。
 しかし、「危ないから触ってはだめ」としかいえない親は、子供は「恐怖」のみを感じ、親に「自分の気持ちを話す」ことができなくなることにつながるのです。
 理想の親は「怖いけど優しい人」である必要があるため、親はずっと苦しんでいる課題の1つとなります。
 次に、子供の話をします。子供は「好奇心」を優先することで「経験」を学び、「失敗の怖さ」を学びます。
 すなわち、「好奇心」⇒「行動」⇒「結果(嬉しさや悔しさ)」です。
 しかし、失敗による「恐怖」を恐れ、次第に子供は「好奇心」が失われていきます。
 そして、これまでの「経験」から、「目的(楽しむこと)」だけに絞り、「行動」を行うのです。
 すなわち、「楽しむこと」⇒「行動」⇒「結果(楽しい)」なのです。
 忘れないでほしいことは、子供が「好奇心」を優先することができたのは「恐怖となる結果を知らない」からなのです。
 ここで子供が、もし、自分がいじめの対象となったり、両親に離婚されたなどを経験するとどうなるでしょうか?
 子供は親に「嬉しい気持ち」を与えてもらえる存在と考えているため、「嫌な気持ち」=「良い子ではない」と考えてしまい、「良い子になる」ことを頑張ろうとしてしまうのです。
 しかし、子供は自分で「嬉しい」の作り方を知りません。だから、「トラウマ」となってしまいます。
 そして、いつのまにか「良い子になるために頑張る(我慢する)」と言うことを覚えてしまうのです。
  すなわち、目的が「他人のため」⇒「行動(頑張る)」⇒「結果(嬉しいや悲しい)」で生きてしまうことになります。
 これでは子供の行動は「頑張る」ことしかできない人間になります。
 そのため、このような子供は「人よりも頑張ってきた」と感じるようになるのです。
 「他人のために頑張る」子供は親と同じことをしていることになります。
 しかし、親は「他人に大切にされる」方法を多少なりとも知っているものの、子供は経験がないために「他人に大切にされる」方法を全く知りません。
 むしろ、「他人のために頑張るから、他人に大切にしてもらえる」と勘違いしてしまうのです。
 「他人に大切にされる」大きな要素は、「自分を大切にする」ことであるにもかかわらず、子供はそのことを知らないで育ってしまうのです。
 子供が「他人のため」に頑張ることは、「他人に大切にされる」ことを経験できない上、「我慢」と言う行動が「ストレスを1人で抱え込む」ことにつながってしまいます。
 結果的には、「他人に大切にされていると理解することができない」、「自分の気持ちを素直に他人へ伝えられない」大人になってしまい、このような子供は「他人から大切にしてもらえない」結果を出す大人へなってしまうのです。
 なぜなら、「信頼している人」に「怒る」行動をされても、「もっとがんばらないといけない」と感じ、「怒られている意味(相手の気持ち)」を理解することよりも「嫌われる恐怖」を取り除くことを優先するため、「ストレス」しか感じません。
 また、「自分の気持ちを素直に伝えない」のであれば、相手もその子どもの気持ちを理解できないのです。
 まとめますと、「大切にしてもらっていると実感できなかった子供」は、「相手の気持ちを正しく理解できない」、「自分の気持ちを大切な人に素直に伝えられない」ことにより、「他人から大切にしてもらえない」結果を出す大人となってしまうのです。これが、私のいう「生き辛い」と感じる理由となります。
 本人は「頑張る」ことは当たり前と感じ、その目的は「違和感(恐怖)を取り除くため」となっているのです。
 本人はずっと「違和感を取り除くため」に行動していることすら気づいていません。
 ただ、本人は「他人から大切にしてもらう」ため、精一杯頑張り、本人は「結果」を出さなければならないという「結果主義」になってしまうことになります。
 もちろん、子供は「大切にしてもらう」ことを「実感」していれば、精神病には滅多になりません。
 「大切にしてもらっている」と実感できていないからこそ、「私は親に大切にしてもらった覚えがない」という感覚を感じて生きており、その結果「親が大嫌い」になる結果となるのです。
 すなわち、子供は「相手のため」になっていなければ、「違和感(恐怖)」を感じ、「頑張る」癖が身についてしまうことになります。
 だから、精神病の方は「頑張りすぎ」と周りから呼ばれるようになるのです。
 要因は,「子供が他人に甘えていない」ことであり、「甘える」を知らないからこそ、「頼る」ことを知らないのです。
 その結果、「自分を大切にすることを経験できなかった」のです。
  これは「親」「子供」「環境」など色々なことが複雑に絡み合っており、特に子供が「トラウマをもつ」ことによって、子供は「自分よりも他人を大切を優先する」大人へとなってしまうのです。
  私個人としては、「精神病」にかかる多くの方が「人を愛する力」が人よりも能力が高いと思います。
 その理由は「他人のために頑張る」ことは当たり前だからなのです。
 ただ、「精神病」の方は私が相手をいくら大切にしても、「足りない」とも感じます。
 それは「満足できない」からであり、「大切にしてもらい方」がわからないからなのです。
 そして、このような方は「満足できない」理由を探します。最初は自分を責め、「もっと頑張る」ことで満たそうとします。
 しかし、「頑張りすぎ」によって「精神病」になるのです。
 本人は「私の人生は自分が幸せになるのではなく、他人を幸せにすることなんだ」と悟る方もいるでしょう。
 「精神病」にならなければ、もっと苦しんでいたに違いありません。
 では、なぜ精神病は大人になってから、発病するのでしょうか?
 その理由は「甘えたい」のに、大人になると、「甘える」ことは「悪」であることを学び、「頑張る」しかできないからなのです。
 多くの方は「頼る」を知っているため、「息抜き」が自分でできます。
 でも、精神病になる方は「頼る」を「甘える」と感じるため、「頑張る」ことしか許されないと思っているのです。
 だから、「精神病」になる人は「甘える」ことを強制的に周りがさせて、「頼る」を覚える機会を作ることが望ましいと私は考えています。
 そうでなければ、「精神病」が良くなっても、「頑張る」ことにはかわりないからなのです。
 

 話を「恐怖」に戻します。このように、精神病は「頑張る」ことをしなければ、「恐怖」を感じることになります。
 「頑張る」理由は「恐怖」を感じるからです。ですから、治療には「恐怖と感じることを体験をさせる」ことが必要不可欠になるのです。
 ではどうのようにして、「恐怖」を取り除くのでしょうか?
 この方法を確実に実現することができれば、必ず3~6ヶ月で治ることを保証いたします。それ以上かかる方は、必ず行動できていません。その場合は、できていない理由を考えてみてください。
 精神病の方はよく次のように言います。「治せるものならば、治したい」。これは本心で言っている言葉だと思います。
 だったら、それを証明してください。次の方法を実行できれば、100%治ります。
 そのかわりに「死ぬほど苦しい」思いをします。逆に言えば、正しく「苦しむ」ことをすれば、必ず治るのです。
 以上の覚悟がある方のみ、以下をお読みください。ここからは治療方法になるため、有料会員のみの回覧となります。
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Author:よっし~2
 精神病の彼女と僕が精神病を乗り越えて結婚までを描いた日常を「ドラマ」に記載しております。今では彼女から妻へ変わり、さらに病状は日々改善しております。
 その際、介護側である私が思いついたことや、病気の紹介などを「治療方法」に記載しております。
  2013年2月より「精神病の彼女と僕 ~私と彼女が幸せを掴むために~」が「まぐまぐメルマガ」でデビューすることになりました。
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